北海道といえば、松山千春。中島みゆき。ふきのとう。松山千春は、スーパースターであった、
ひたすら、足寄を愛し、札幌のラジオをするには、鈍行の「からまつ」の深夜列車で往復する。オールナイトニッポンをやるときも旭川まででて飛行機にのり東京へ行く。当時は僕は驚いた。
松山千春のオールナイトニッポンを毎週聞いていた。まずは水曜二部から始まった。1977年のころ
わずか、半年で一部に昇格。1979年の秋に 忙しすぎてオールナイトを降坂、
この時は週刊誌にのるほど、女子高生たち100人以上がニッポン放送で出待ち。署名運動までして、復活を願うのだった。
同時期、つボイノリオ先生の金曜日の最終回は誰もこなかったという。
「きっと帰ってくるからな!」といい。
火曜日一部にその後、復活した。所さんのオールナイトがおわったのだ。ぼくはもうそのころ、深夜放送ラジオから足を洗いはじめていたので、聞いていない。火曜日の二部はアルフィーのこうちゃんがやっていた。しかし、その後、ずっと二部で頑張るんだな、アルフィーは・・。
松山千春は、後輩の癖に、アルフィーのメンバーに「おまえらもがんばれよ!」とか、失礼なことをいったらしい・・。
千春の放送の最後のほうは、いつもなんか、説教されてたように思う。しかし、若い僕は素直に聞いていた。
千春の歌は、悲しい女の歌がおおい。そして、ギターテクと、アレンジなんだ。アレンジがドラマチックだった。
このアレンジャーがアーチストでもある、ちはるがよくいう、きよっさん、清須邦明さんだった。彼もオールナイト二部をしだす。きよっさんの歌も好きになった、
北海道に旅に行ったとき、なんとかして、足寄に行きたかった。足寄分岐点の手前までいったのだが・・。
しかしだ、美国YHのユースのペアレントと千春が友人で、彼が来るといううわさがあり、ぼくは僕に美国YHへいった。
が、数秒、前を通過したのを見ただけだった・・。
千春のオールナイトは竹田健二さんが、段取りをつけて、送り出した。その後、彼は亡くなった。千春の衝撃は相当なもんだったろう。
ぼくは、千春のオールナイトが終わって、残念でたまらず、わざわざ、STV札幌ラジオの「松山千春の今夜は決めよう」を、ナショナルクーガーの
ロッドアンテナをまわし、雑音まじりの放送を聴いていたのを思い出す。
1978年10月21日にリリースされた松山千春の3枚目のオリジナル・アルバムである。歩き続ける時
シングル・チャートで初の1位となった『季節の中で』がヒットしていた時期にリリースされ、1週だけシングルとアルバムの同時1位を獲得した。
そして、あのベストテン騒動を思い出す。千春はあのときはすごい人気だった。