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森田童子の歌は、どこでよく聞いたかというと、ぬかるみの世界だった。もう夜中にひとりで聞くにたたえがたいものがあった。

森田 童子(もりた どうじ、1952年1月15日 2018年4月24日は、日本の女性シンガーソングライター。本名は非公表。

1975年10月、シングルレコード『さよなら ぼくの ともだち』で、ポリドール(現:ユニバーサルミュージック合同会社)からメジャーデビュー。1980年、ポリドールからワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)へ移籍。

1975年から1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、1983年11月30日発売のアルバム『狼少年 wolf boy』と、同年12月上旬の前進座劇場六日間公演及び12月25日・26日の新宿ロフトでのライブを最後に音楽活動を休止する   ウイキペディア参照。

2018年にひっそりと、普通の家庭の主婦として 亡くなった。まだ若いのに・・。最後までシークレットなひとだった。

トレードマークは サングラス、恐らくレイバン と カーリーヘアー、

「たとえばぼくが死んだら」は、1980年にリリースされたアルバム「ラスト・ワルツ」に収録。

もうフォークの時代も終わりつつあった、学生運動は静かになり、しらけ世代、もしくは新人類といわれる、ぼくらがいた。

森田童子の歌には、学生運動で挫折した青年のこころなどがでてきております、しかし、彼女の世代は少しあとでした。

中学のときにつぶさに、そういう紛争をみていたんだとおもいます。

今の日本とは全然違う日本がそこにはありました。

成田闘争の終結で、ほぼ鎮静化するのです。彼女は高校に行くも、中退をする。

そして、20歳の時、友人が死んでしまい。そこで、この歌をつくり、歌い始める・。

「たとえば 僕が死んだら」

森田童子は、なかにし礼の姪であったらしい。そして、売り出すときに、徹底的にシークレットでいこう。

となった、ほぼマスコミにもでないまま、引退し、最後のほうになって、シークレットのはずがなかにし礼が本でばらした。

血の歌  なかにし礼が書いた小説。2021年に亡くなってから本が出た。そのときには、森田さんも亡くなっていた。

僕はその本を読んではいません、結局、どんなひとだったのか、と、終わってしまった。

それでもいいとおもう、イメージがどんどん広がるではないか・・。

中島みゆきでもない、山崎ハコでもない、漆黒の暗さの中に、一筋の豆球のあかりのように現れて去って行った、

すい星のように、宇宙をさまよい、地球のそばを通過した時、その光りをかすかにみたに、過ぎない。

  たとえば ぼくが死んだらそっと忘れてほしい

淋しい時は ぼくの好きな菜の花畑で泣いてくれ

たとえば 眠れぬ夜は暗い海辺の窓から

ぼくの名前を 風にのせてそっと呼んで

冒頭の歌詞に、がつんとささる、若いときに友人をなくすショックは大きい。

高校教師というテレビでリバイバルし、ヒットをした、あの時の戸惑いはわすれることがない。

 

#森田童子