このページでは1982年の北海道の旅について、思い出してみる。
ほんとうにさんざんな旅であった。まあ、男6人で行くのが馬鹿なだけであるが、もう、なんか息が詰まりそうでいやでいやで
三回も脱走した。その行為は許されるものではないのだが、今思い出しても自分はひどいことをしたと反省している。

まず、北海道というのはまったくといいほど興味がなかった。ただついていく、という感じでした。中高と鉄道ファンだったのですが、大学に入り鉄は卒業しました。
そもそも、最初から、台風の直撃で、新幹線が止まり、富士川の鉄橋が流された。
以下 ウイキペディア参照
1982年(昭和57年)8月2日未明に昭和57年台風第10号が渥美半島に上陸し、中部地方を縦断した[51]。東海道本線では、8月1日16時頃から風雨が強くなり、風速と雨量に伴う運転規制が順次強化され、列車の徐行や運転停止が相次いだ[52]。富士川においても、支流の早川(野呂川)において雨量が570ミリメートルと観測史上最高となり、静岡県内の北松野観測点では観測史上最大の毎秒14,400立方メートルの水量となった[51]。こうした状況で、8月2日5時10分頃、下り線として供用されていた橋の、1889年(明治22年)に建設された第4橋脚が転倒してトラス桁2連が流失し、続いてその下流側に位置していた、当時は廃線となったまま存置されていた橋の1910年(明治43年)建設の第4橋脚が倒壊して、やはりトラス桁2連が流失した[51]。
事後の調査では、下り線第4橋脚は元の姿のまま神戸方へ真横に転倒し、桁は下流側にやや離れて2連が分かれた形で横転していた。廃線第4橋脚は下流に約50メートル押し流され、桁は4連目が下り線の4連目の下に重なった状態となり、5連目は行方不明となったが河床に埋没したものと推定された。推定された倒壊状況としては、上流にあった堰堤が決壊して右岸側に傾いた水流が制水工にぶつかって反転して第3橋脚から第5橋脚の付近に集中し、特に洪水のピークでは第4橋脚付近の平均流速は毎秒8メートルにも達していた。このため基礎井筒が激しい洗掘を受けて支持地盤が削り取られ、まず下り線の方から倒壊に至ったものとされる。これにより生じた洗掘などのために、廃線の第4橋脚も倒壊した[53]
この事故では、犠牲者が幸運にもでなかった、大垣いきが近い時間で富士駅に停車。もし、通過中に流されていたら恐ろしい犠牲者がでていただろう。
8/4に遅れて新幹線にのり、行こうとするが、今度は小枝が引っ掛かり、運転取りやめ。
8/4からは在来線の残った単線でタブレット交換で渡ることができた。
もう、混乱の極みで、小田原からなんとか在来線に乗り換え、混みまくり、もう新幹線の客もながれて、満員、満員電車で1時間以上、あのでかいリックを背負い参るのであった。
よく考えれば、日本海ルートで、きたぐにでいけば充分であった。6人の男があーだこーだ、言い出すと、余計に混乱する。もう、この時点でストレスはたまっていた。そして、友人のひとりが迷子になってしまい。東京駅と上野駅で別れて捜索した。当時は携帯もないから、易で呼び出してもらうしかない。
何回も上野駅で彼の名前が呼ばれていた。
なんとか、見つかり、583系寝台はくつるで、青森へ・・・。
そして、ぼくが札幌で、もうひとこともいわず、失踪する。
みんなは、数時間まったようだが・・。其の後、稚内に行く予定だったので、札幌駅のホームに夜中、帰還する。友人たちは激怒していた。
それでも、イライラは収まらず、稚内で、違う路線に飛び乗り、失踪した。二回目。
そして、なんも知らなくて、あの桃岩にみんなで行くのである。
礼文桃岩につくと、そこから僕の人生もかわった。旅も変わった。
ヘルパーが旗を持って現れ、荷物を全部トラックに載せてください。という。
そして、男と女は一列になってください。道はあぶないので、それぞれ手をつないでください・・。
女の子と話すのも苦手、手を握るなんても初めての20歳であった。
「だいがくどこですか?」また、きたよ、この話・・。
「京都産業大学です」
「あ、知ってる、あのねのね、鶴瓶さんの大学ですね、テレビにもよく出てる」
しかしだ、僕ら6人は暗いくらいちっともおもしろくもない冗談のひとつもいえない男6人だった。
桃岩について、夜になり、あのミィーティングに参加、大声で歌い、叫ぶ。ぼくは、なんとたのしいだ!これは最高だ!と思った。
いきしなに手をつないだ女の子たちは、大阪の短大の女の子たちで、これまた6人だった。
ぼくはもう、その子たちと話すのが夢中になり、友人の清水も、いままで暗かった旅を吹き飛ばすように、
「連泊して、8時間コースへいきましょうよ!」誘われたのである。ぼくらは、一泊の予定だったので、清水と相談し、友人たちと稚内で合流する約束をして
みんなと別れた。ほんとうに楽しい桃岩だった。8時間コースも楽しくて、同窓会をしたぐらいだ。
短大の女の子と、一緒に礼文を離れ、稚内についた。
彼女たちは、バスにのり、オホーツクのほうへゆくという。清水とぼくは、見送りに行った。
さようならをいうと、ひとりの女の子が、清水に手を握って
「一緒にいきましょうよ!バスにのりましょう!」
と、ぼくらを誘った。
ぼくらはびっくりした。驚いた。返事ができなかった。でも、いままで、何回も友人たちに迷惑をかけてるので
いけない。といった。
彼女たちはさみしそうにバスに乗り、手を振ってくれた。
ぼくらは、とぼとぼと、友人たちとの、待ち合わせ場所のユースに向かった。
「おまえが、ひとりで消えたとき、ほんと、怒っていたんだぞ」僕は清水に怒られた。
「悪かった」
「でもな、おれも、なんか、嫌な旅やったんだ」と清水はぼそっと、いった。
稚内の道をあるきながら、二人はバスの別れの光景を思い出していた。
「これでいいのか、もうさよならでいいのか}ぼくは、いった・
「また、あのたびに戻るのもいややな」
「そうや、二人で置手紙をおいて、あいつらとは別れて、あの子たちをおいかけよう!」
ぼくらは駆け出し、ユースにキャンセルをいい、手紙を書いた。
ほんとにひどいやつだった。ぼくは・・。
稚内駅に戻り、なんと、レンタカーを借りて、追いかけた。今考えても無謀なぼくらだった。
稚内から、知床、阿寒までいって、どこにもいなかった。どこさがしてもいない。
しかたなく、稚内にもどり、車を返した。
今度は夜行にのって、旭川までいき、再び夜行に乗り換えて網走をめざした。
しかし、知床周辺にもいず、阿寒湖のユースに泊まることにした。
結局、そのたびでは、逢うことができなかった。
急行夜行は、古い客車でもうお尻がいたいほそ、夜行で二泊すると、けつが痛くなった。
桃岩で8時間コースで一緒だった。岐阜の女の子と、大阪の近畿大学生中村さんがぼくらのことを覚えていてくれた。
ぼくらは、もうあの女の子たちに会うのはあきらめて、今度も夜行で、積丹を目指した。
もう、金も時間もなくなった。
積丹YHにいくと、ここも楽しいユースだった。ここでも偶然、岐阜の女の子と中村さんに再会した。三度目。
もう、たのしいYHで、其の後も同窓会をしたり、岐阜の女の子は、京都にあいにきてくれた。
40年近くたっても年賀状を出している。
前半の旅と後半の旅は違った。
もちろん、ひどいのはぼくだが、ひとりで行く旅のほうが楽しい。そう思った。
つづく・・。2025/02/27記す

いきしなの青函連絡船