ミッドナイト東海

鶴瓶さんは1970年代後半から1980年中盤まで、深夜放送ラジオの放送を数多くされていた、

月曜日は、大阪MBSラジオヤングタウン 火曜日は 文化放送セイヤング、こちらは一年で終わる。木曜日深夜が名古屋での東海ラジオ ミッドナイト東海

日曜日は、あの伝説の大阪OBCのぬかるみの世界。当然、すべて生放送。週4で、深夜放送をされていた、昼間はテレビに出たり余興にでたり、もう万年寝不足で会ったと思う。

そんななかで、思い出深いのが、ミッドナイト東海木曜日。 

1975年4月 にスタートし1983年8月に終わった。1975年というとぼくは中学二年。鶴瓶さんは24歳。このとしの10月にヤンタン月曜日のレギュラーを獲得するのだが、それよりも先に、ミッドナイト東海をはじめた。当初は金曜日だったのが、木曜日に変わった。

名古屋のAM放送は大陸の電波に影響されやすく、韓国と北の放送。そしてそれぞれの妨害電波などでかなり荒らされていた。そして地磁気の影響なのか、きこえないこともあった。CBCのつボイさんの放送は全く無理であった。当時僕はBCLを聞くつもりで買ったラジオ ナショナルクーガーでロッドアンテナを回しながら、必死で音を探していた。東海ラジオは、比較的電波が飛んでいた。そして1時を過ぎると、大陸の放送は沈黙するのである。

当初は、地盤の大阪ではないで、知名度は低く、はがきも少なく。自分で書いていたそうである。

 思い出深いのが、番組終盤の15分から20分に「四畳半のコーナー」という、リスナーが電話をしてそれを繋ぐのである。ぼくは何回も何回も夜中におかんやおとんにばれないように10円玉をたくさんにぎりしめ、近所のたばこやの前にある赤電話から電話した。

しかし、一回も放送に出れなかった。一回だけ、デレクターさんにつながり、もう放送がおわったから、かけてこないで、

という風に言われた。しかし、その電話の後ろの方から、鶴瓶さんの声が聞こえ、「ああ、ええよ、電話かわるわ」

と、電話に出てくれた。ぼくは必死に次の日に、神戸の魚崎の東灘寄席に見に行くということを伝えた。鶴瓶さんは「そしたら、あした、あおうな。俺の方から君を探して声をかけるからな」と言ってくれた。嬉しかったが、10円玉は無くなって、切れた。

翌日、寄席にいった。その時のできことは前述してるので省く。

 

鶴瓶さんのラジオをすべて聞いていたぼくは、ラジオ放送の冒頭のまえふりの今週のエピソードを何回もおなじのをきいたものだ。

新幹線にのって、食堂車に座り、目の前にサラリーマンがいて、同じようにご飯を食べている。鶴瓶さんはビーフシチューだ。

そして、真ん中にサラダが置かれたんだ。どっちのサラダかわからない・・。というような話を、ヤンタンでしてセイヤングでしミッドナイト東海でしていた。

1973年ごろか、つボイノリオさんが 舌禍事件で4か月でおろされた。たしか、ほんのひとことかなにかが、たまたま聞いていたPTAのえらいさんがクレームをつけ、降ろされた。

同じように、鶴瓶さんも舌禍事件を起こしてしまった。あのときのことは何故かよく覚えている。

 リスナーの電話コーナーのときに、いろいろ相談を受けていた。たしか、進路か受験かについて・・。

 夏休み明けの1週目に一人の中学生から電話がかかってきた。

「本当は地元の中学にずっと行きたかったのに、9月の中ごろから高知の全寮制の学校に行かされる」

、たまたまそこの家の父親が何事かと起きてきて、電話受話器をとり、「あなたは誰か?どういうことかこんな夜中に」と来たのである、鶴瓶さんは、お子さんから相談を受けて、ラジオ放送でお話をしていましたと、丁重に答えていた。うるおぼえだが、それで、父親がうちは病院をどこそこでやってる、○○というものだ、迷惑だ。もう切る。

鶴瓶さんは、その言い方に頭に来たのだ。「もう、何々の○○病院にはもうみんないくな!」

と、ラジオでいってしまった。さあ、大問題。本人ももうだめだと、思ったろう。

しかし、それから、リスナーたちによる署名運動が起きた。

そして、番組は存続となり、ミッドナイト東海自体がおわるまで続くのである。

話変わるが、いろいろなコーナーがあった、

あいうえお 作文。

そして、突撃ゼロ戦ゲーム 

「男が出るか♪女が出るか♪ミットが出るか♪バットが出るか♪鶴瓶の突撃ゼロ戦ゲームだよ♪」

そして、最後の4畳半のコーナー。

生放送で、兄貴分の鶴瓶さんがわれわれのために、放送をしてくれてる。そこに生放送の醍醐味があった。

つづく  2025/01/21

大事なことを忘れていた。とうじ、少年ジャンプでドクタースランプが連載されており、大人気だった。

しかし、ぼくも漫画を読んでいたのだが、鶴瓶さんが描かれてるんだ、鳥山明先生はリスナーだったのだ。

fanがつなぎ、やがて、対談もあった。鳥山明先生はその後世界的な漫画家となり、惜しくも先日亡くなられた。

 

追記。この名古屋の深夜放送にさまざまな、ゲストが来た。ゆきねーも(兵頭ゆき)さんも人気が出始めたのに、影のスタッフのようだった。たかじんもなんどもあらわれ、ぼくは内心、またきた。とおもったもの、河島英五さんもこの番組で知った、

とんぼちゃん、このフォークグループは東北のひとですが、鶴瓶さんはこの番組でなんどもレコードをかけた、

2023年3月8日、伊藤豊昇が永眠しました。 67才でした、悲しい限りです。

 

ぼくがとんぼちゃんの歌を好きになったのも、鶴瓶さんのおかげです。

2025/01/23  追記