わいのわいの90

 

 

 

 

 

 

番組開始当初のタイトルは

「サンデー・フレッシュ行延鶴瓶のわいのわいの90!!」で中村行延もパーソナリティの一人だったが、1977年7月31日の放送で降板し、1977年8月7日からはタイトル変更した。

1975年は鶴瓶さんは、ヤンタンがはじまり、わいのわいのもはじまり、躍進のとしやたんですね。

1975年10月12日スタート - 1988年4月10日終了。

実に13年間も続いたのです。番組開始当時は無名だった鶴瓶の起用はスポンサーであるコカ・コーラ側が当初難色を示していたが、毎日放送側の粘り強い説得で番組を開始させた。

高校生の男の子チームと女の子チームが参加。ぼくも二回ほど参加した。上のキーホルダーは参加記念の大きなものだった。写真は友人のFくんが

「感謝のコーナー」にでて、家に電話するときのもの、親子のエピソードをいろいろ鶴瓶さんがインタビューし、

最後に 参加者が、「おかあさん、ありがとう」で締めくくるのだ。とても恥ずかしい感じがして、僕はなるべく出ないで済むようにしていた。

番組にはがきを送り、スタッフから、来週これますか?友人を5人つれてきてください。

そういわれ、大阪の吹田までいき、国鉄千里駅から、送迎バスがでており、千里丘のスタジオまでいった。

土曜日のヤンタンにも二回ほど参加し、千里丘は憧れの街であった。

 

後ろ姿のひとは、田中こうぞうさん。

 

1976年ころ、中村ゆきのぶさん、佐藤良子さん、鶴瓶さん。鶴瓶さんは26歳頃、ぼくがカメラを持って映すと何回もポーズをしてくれた。

番組は13年も続いたのだが、やはり、鶴瓶さんの人気は関西のラジオを起点に、若い人々の心をつかんだ。

番組の放送が終わり、鶴瓶さんも同じ送迎バスで帰るのである、鶴瓶さんを囲んで、番組に参加した高校生男女10人で、国鉄に乗り換え

環状線でのりかえるまで、その間、いろんなことを話してくれる。ひとりひとりと向き合う姿勢。ひとりひとりの顔を見て、

みんな、スターである鶴瓶さんがまだラジオだけで若者の独占であったころは、数千人、数万人のわかものに、そうやって話すのである。

サインしてください、必ずサインをしてくれる。握手もしてくれる。話を聞いてくれる。みんなの心の中に、鶴瓶さんと思い出の明かりがともる。

「ぼくのことおぼえていますか?」「おぼえてるでー」

おそらく、覚えてないのである、覚えれる人数ではない、でも、覚えてるぞ、というのである。それが若いときは嬉しかった。

みんな、そうである、だから、テレビにで初めて、いろんな番組を鶴瓶さんがでてるとき、

おもわず、チャンネルを止めて、見るのだ。あのときのことを思い出す。

鶴瓶さん、えらくなった、すごくなった。映画もドラマもでてる、紅白の司会も・・。

でも。原点は、一対一の 覚えてるデー なのである・。

ぼくも、実を言うと、覚えてもらった。その話は ぬかるみの世界のところでの話にしておきます。

つづく 2025/01/22記す