
鶴瓶さん。お元気でしょうか?いま、テレビやネットでは中居君騒動でわやになっています。わやです。中居君はあんまり僕は好きではなかった。べーさん、と言い出したのは中居君が最初ではないだろうか、かなりまえに、中居と飲みにはいったら、ずっといたずらされたとか、言っておられたのを思い出す、めがねをはずしてとるのだそうだ、師匠は目が悪いから当然困るのだ、冗談がきついのか、ジョークなのか、わからないが、べーさんとかいう芸能関係者は僕は許さん。親しみのあるおおらかな人間だから、いわせているのだろうけど、文珍さんにぶーさんとか、チンーさんとか言わへんし、ほんで、飛び火で、師匠のほうにも火の粉がまってきた、僕が一番恐れていたことだ、ほぼ関係のない鶴瓶師匠のCMを取りやめにするのは、腹が立ちます、鶴瓶師匠はいま、どんな気持ちでしょうか?怒っていますか、恐れていますか、もう、辞めたいきもちですか、どうだろう。中居のことも心配やと思うし、若いときの鶴瓶師匠なら、中居とめて、絞めていたかもしれない。「そんなことするなー」と
ほんと、哀しき紙芝居。
ぼくらの深夜放送の鶴瓶さんは、遠い遠いところにいってしまいました。
ぼくが、鶴瓶さんのよもやま話を聞いて、京都産業大学に進学し、一年目は神戸から遠距離通学してましたが、二年からバイトの金をためて、家をでまました、おかんは反対するけど、バイトするから、ということで、バイト三昧の日々。
新大阪駅の新幹線の列車食堂の基地のバイトをやってました。24時間勤務です、木曜日は出勤でした。
鶴瓶さんのスケジュールをわかっていた僕は、いつも新大阪駅始発のひかりで名古屋のゆくのを知ってました、ミッドナイト東海 深夜ラジオ です。1時から始まるけど夕刻には大阪を出てました、はがきを全部目をとおすためです。
ぼくは、いつもその時間になると、ホームから、鶴瓶師匠が出てくるのをエレベーターの上から見てました。
たいてい、駅待ちの女の子が二三人ついてきます。彼女たちも熱心なファンです。手編みのセーターやお菓子などを差し入れる。
ぼくは、いつも、近寄りたいが、バイト中なので寄り付けなかった。
たまたま、臨時列車のこだまの到着があり、台車をおして、荷下ろしをして、大型エレベーターまで帰ろうとしたとき、前から鶴瓶師匠ととりまきの女の子たちが偶然前に来た。
鶴瓶師匠は、なんと、ぼくに声をかけた、
「君は、僕に似ているな!」まわりの女の子たちは苦笑していた。ぼくは、もう何を言っていいかわからないので、相当焦った、記憶にない。ぼくは、とっさに作業服にサインをしてください。と、サインをもらった。ぼくは、鶴瓶さんのファンであることを熱弁できなかった。ぬかるみ信貴山ツアーでは、覚えていてくれていたが、もう、ヘアスタイルも変わり、僕もオーバーオールを着て、実を言うと鶴瓶もどきを演じていた部分もある。もう、おぼえていないはずだ。
僕はキオスクの売店で何を思ったのか、グリコアーモンドチョコレートとオルナミンCを買い、鶴瓶さんに渡した。差し入れである。

「こんなんもろて、ええんかいな」
気の毒がっていた、まあ、貧乏学生であるので、差し入れするほうがおかしいのだが・・。
鶴瓶師匠の名古屋ゆき、木曜の夕刻は、それからも何度も新大阪で見かけた。もうバイトで泊りであるので4畳半のコーナーやゼロ戦ゲームにも出ることはできない。
あのときは、4年も近づき、進路で悩んでいた。実を言うと、鶴瓶さんの弟子に入りたいと思っていた。しかし、自信もないし、度胸もない。
「男が出るか♪女が出るか♪ミットが出るか♪バットが出るか♪鶴瓶の突撃ゼロ戦ゲームだよ♪」
「つるべさんー、体育館の裏でまってるわー」
そして、その出会いの翌年、ミッドナイト東海は、終了した。
鶴瓶師匠は、ラジオからテレビにシフトチェンジし、やがて、大阪ローカルから全国区タレントに突き進んでいく。
手の届かないところにいってしまった。
でも、やっぱり、ひとりひとりのファンにはあの時の鶴瓶さんとの思い出が残っている。だから、テレビに出ていると見てしまう、とまる、
哀しき舞芝居も最終章。

新大阪駅の地下の基地。ミヤコホテルの列車食堂の輸送斑だった・
いつまでも応援しています、つづく 2025/01/31