鶴瓶上岡パペポTV

 

読売テレビ制作で、1987年4月15日から1998年4月1日まで放送されていた。当時の僕の心境は複雑であった。1987年にはぬかるみも存在していたので、どういう番組になるのか、新野先生はすねないか、上岡さんの話芸は、流れる滝ノ水のように、しゃーしゃーと、ラジオでも活躍されていたが、ラブアタックでもおみかけしていた。ぼけとつっこみのトークであれば、これほど絶妙なものはいないと思った。この番組のすごいのは、もう見るな、のような時間に始まるのである。ラジオの深夜放送並の時間。もう眠たくて仕方ない時間にはじまる、そして、曜日もてんてんとかわる。もう、嫌な人はみんでいい。のようなおのだ。この番組を考えたのはだれだろうか、鶴瓶さんの次へのブレークのきっかけにもなり、上岡さんの関東の大人気にもつながった。

 

そして、この番組は60分台本なしでフリートーク、しかも、会場に満タンに若者を入れる。整理券を確か配らない、きたいやつはこい、と、朝からえんえん並んで待つのである。これは作戦でもあろう、待つのに疲れて、夜に始まるのだが、もう、まちづかれて、笑うのである。ド深夜の放送なので、みてるひともぼけて笑うのである。本当にあまたのいい二人、鶴瓶さんのぼけ、上岡さんのつっこみ。最高であった。もともと関西ローカルの番組であったが、どんどん地方でも遅れて放送するところもでてきた。夜中に放送するので、当時はやりはじめていた、テレビのビデオデッキで、録画する。消そうとおもうけど、消せない。僕も何本も録画した。

僕は1988年ごろ、仕事の都合で広島に飛ばされた。ああ、パペポテレビが見れなくなる、残念だった。後輩の奴は、わざわざ、彼女に録画してもらいパペポテレビを送ってもらっていた。しばらくたってから、夜中にテレビを見てると なんと、広島でも再放送が始まったのだ。

わあ、鶴瓶師匠、がんばってる。。ぼくはあのとき励まされたのを思う。笑いよりも、鶴瓶さんのがんばりを感じた。

深夜放送からラジオから テレビへ。時代は、重厚長大から軽薄短小へのものへと変わりつつあった。暗い、想い。から、気楽に、軽く。

なのであるが、ふたりはおそらく大脳を駆使して必死にトークを広げている。

深夜放送ラジオの世代は6年から8年で入れ替わる、中一から高3くらいまで、みんな卒業していく。

その世代が自立し、部屋にテレビをおいて、鶴瓶さんを見るのである。丁度その時期でもあった・。

ほぼ11年続いた。スポンサーも郵便局がつくという驚きの展開であった。

追記 公開収録も原則として事前申し込みが必要なく、予告された収録日に配布される入場整理券を入手すれば、自由に見学することが出来た。整理券の配布は番組開始当初収録日の夕方に配布されていたが、番組の人気から観覧希望者が多数集まるようになり、早朝から並ぶ観覧希望者が後を絶たなくなったため当日正午配布に繰り上げられ、その後更に朝9時半に繰り上げられた。ただし、1993年頃から出演者両名のスケジュールの都合により2本分のまとめ撮りとすることが徐々に増え、朝から並んで順番を待つことが出来ない社会人などの救済措置を兼ねて2本目は事前にはがき申込みをして抽選に当選した視聴者にだけ公開するパターンが定着していった。観客はカメラに映る前列は床に座り、後列はパイプ椅子が用意され、回によっては立ち見の客もいた。フラッシュを焚かない事を条件に写真撮影も可能だった。ウィキペデイア参照

2000年3月26日、上岡の芸能界引退に伴い最終回を迎えた。

2023年 上岡龍太郎師匠はお亡くなりになった。