東俊一君の思い出

1981年12月24日午後4時50分。下鴨本通と北大路の交差点で..彼は事故で死んだ、20歳の若さだった。

 

何回も何回もあの交差点にいった、あの交差点にはたくさんのたくさんの花束が捧げられていた。本当にすごい数だった。近所のすし屋さんが見るに見かねて数多くのバケツに水をいれて、花束をいけてくれた、あの寿司屋さんも、いつの日か、なくなった、あの交差点の周りの光景はかわった、道路も舗道もガードレールも綺麗になった、あずまくんのおとうさんも命日ちかくに、大阪にしごとでゆくときは、現場にいっておられたと、のちに聴いた、彼のサークルの女の子たちが二人いて、その子たちと喫茶店で話をしたという、彼の残像をその会話でさぐっていたのかもしれない。

ぼくらの下宿の名前はなかった。なかったから、ぼくがかってに付けた、「小山コーポ」となずけた。

その下宿のメンバーが あずまくんだった。

 

2024/12/25 また話は続く。クリスマスイブは彼の命日。ふと思い出す、みんな、思い出してるのだろうか

夕刻前から時計の針をみるんだ。あのときをおもうんだ、阪神大震災の時の時間も時計の針をみる。

あの時の運命というやつの 時間を おもうんだ。あの事件のまえにタイムトラベルでおとずれて、

あの運命を変えてやりたいと、思った。なぜ彼は事故で死ななければならないのか、死ぬべき理由は何もない。

 

下宿のメンバーはいわば家族みたいなもんだった、鍛冶先輩、逢坂くん、その彼女だった、今の奥さんの上野さん、大屋さんに何故か嫌われて下宿を追い出された藤井さん、藤井さんは唯一京都大学法学部だった、京都大学法学部、あずまくんの福井時代からの友人だった。幼稚園から予備校の京都まで同じ人生を過ごし、あずまくんは同志社商学部の特待生、ぼくらは京都産業大学、偏差値は下だ。あずまくんがたまたま安い下宿を見つけて、小山元町で、たまたま藤井さんも下宿をさがしていた、そこで、同じ下宿となった、それが1979年、鍛冶先輩はぼくよりも一つ上で、富山高岡の映画大好きまじめ青年、やたら酒が強かった。藤井さんもあずまくんも強かった。

あずまくんが、突然、この世を去った、次の春。なにも知らない、京都の山奥から18の青年がきた。

それが、大江だった。大江のゆうじんのいわさきくん、ぼくによくなついてくれた。

ぼくほど、おさたにさんに影響を受けた人間はいません。なんか、笑いながら迷惑そうにはなしていた、その同窓会で

話をそらすと、

ぼくが、北海道にたびをして、いろんなことがあったのだが、その旅のことを熱く大江君ら後輩に話したら、次の年に自転車を担いでいわさきくんは、北海道に一人旅に出た、

僕が3年か4年ころ、藤原信也に傾倒していた、彼は旅人であり、詩人であり、作家でもあった。

あずまくんが突然、死んで、今思えば、答えをどこかに探していたんだろう。

メメントモリ という本。 東京漂流 という本。この二冊。よく読んだ、感動した。すごかった、

死を思え、そこから生が生まれる。インド、インダスのほとりで、家族の亡骸を焼く。そのあたり、えらい感動した。

インドはすごい、インドに行きたい、インドこそ精神文明のかなめだ。

後輩をまえに、ぼくは、相変わらず、語った。いわさきくんに、本を渡して、よく読め、と、

何年かして、いわさきくんは夏休み、ひとりで インドの旅立った。

 

「なんで、印度なんか、いくんや、ハワイかアメリカやろ」 ぼくは、完全に属者に戻っていた。いや、俗だな、

彼は、インドを旅し、帰国後、僕に会いたい、伊丹まで向かえにきてくれ、

しかし、税関で止められたようだ、入国を止められた。

「なんか、へんなもの、もってきたんか?」

いわさきは、下痢をしていた。おいおい、ということで入念に、検査されたようだ。

やっと、出てきて、インドのお土産話をぼくに語ろうとしていたのだが、俗物になっていたぼくは

すかいらーくで、ハンバーグをおごり、完全に 俗日本人に戻そうとした。

おいしいおいしいと、バイトが作ってるご飯を食べていた。それを見て安心した、チベットにいきたいとか

いいださないか、そこが心配だった。ぼくの新車を見せて、載せて

「いいだろう、エンジンの音が最高なんや」

 

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俗物だった。ぼくは・・・。

あずまくんが死んで、新しい下宿、おおえくんがきて、かれがいっぱい、英米語の友人をつれてきて明るくなった。

でも、いつ話そうか、みんなで迷った。

いわさきも下宿のメンバーのようなものだった。

2024/12/25 話はとめどもなくつづく・・。あずまくんの話が 岩崎君の話にかわっていた。

19歳の俺 壁にはオフコースのポスター。寒い部屋だった。