1983年7月、4年の前期テストもおわり、徹夜続きで無駄な抵抗を終えた。
7月19日 保健体育という講義の再再再再履修テストを受けた。まったくノートもなかったので、一回生の後輩の女の子、サークルの子にノートを借りてコピーした。同じく落とし続けていた清水とおもに、受けた・。
「これ落として、留年というのは恐怖の大笑いものになるな・・」
テストを終えて、原付で、松清寮の東に会いに行く、安藤とともに、部屋にいた。
「たいへんや、矢井が、日本海で事故ったらしいぞ!」
ぼくらは驚いて、
「ええ、北さんと、テスト終わって日本海に海水浴にいく、いうてたんとちゃうんか」
とりあえず、矢井の下宿にむかった。下宿のおばさんに、話を聞きに行った。
どうやら、もらい事故で、入院しているらしい。
「あんたら、ちょっと、見にいってくれへんか?」おばさんはそういった。
僕らは、翌朝 安藤、清水、東、ぼくと、舞鶴まで見舞にいくことにした。
京都駅の山陰本線の始発5時25分発のDD51がけん引する客車に乗った。眠たかった。
清水は、どうしても 田舎の小松に帰らないといけないので、小浜線でひとりいくとうので
北大路まで原付をおいていった。ぼくは、それを引き上げて彼の葵荘までのっていく約束をした。
舞鶴駅について、病院の場所を確認し、受付で部屋を聞いた。
病室にいくと、足を吊るした矢井君がいた。下宿のおばさんから頼まれた下着などを渡し
事故の顛末を聞いた。
続く・・。
数か月前、欧州論という講義があり、僕は履修していたが、まったく授業にでていないかった。当時1980年においては、通貨を統一しようという
ことや、参加国もまだ少なく、ほんと、できるのか?というものであった。ヨーロッパは何度も大戦が起きた、工業国が争い、農業国が戦場で多大なる迷惑を
被る。戦争はまったく得るものがない、その昔、国土を広げるために各王朝がしのぎを削っていた、ま、その話はよそう・
「北さん、欧州論1のノーとある?あったら、コピーさせてくれないか?」僕はたのみ込んだ。
「いいよ、コピーしてあげるよ」笑って答えた。北さんは当時、八幡市におねーさんと同居しており。実家は和歌山の九度山。
歴史ファンのぼくとしては、真田幸村のイメージが強く、北さんもなんか、強そうに見えた。
普通の子だけど・・。
まだまだ、ぼくらには、男尊女卑の意識は強く。女の子はおんならしく。おしとやかに、のイメージが強いんだが
昼休み時間に、第三食堂で、北さんはひとりでいた。
たばこをふかしていた。うまそうに
ぼくは、もうそれだけで、タバコ吸う女の子は、嫌い。の意識があり、恋愛対象除外になっていた。
そんなこんなで、一年から4年までスペイン語をともに学ぶのだが、つづく
欧州論のコピーができた、と、下宿に電話が北さんからあった。
「明日の、えーと、昼の一時に三叉路で待ち合わせしよう? どう?」
「いいよ」
と、そして、その日になった。
下宿にはいろんな人が訪ねてきた。事故で亡くなったあずまくんの故郷の友人の友人、元美さんが来ていた。
ともみなのに、もと、もと、と呼ばれてた。美人で、同志社女子、ひとつ年上。
下宿にはだれもいないので、ぼくといろいろ話し込んでいた。すっかり、ぼくは時間を忘れていた。
「ええと、なんか用事あったなあ」
「まだいいじゃないの、」なぜか、引き留めるもとさん。
もとさんは、彼氏はいるのだが、わけのわからんボーイフレンドだった。
三時になった、下宿の電話が鳴った。
「おさたにくん、ずっーーと。三叉路で待ってるのに、何で来ないの?」
北さんからの電話、
「ああ、ごめん、すぐいく!」急いで大学まで行き、平身低頭で謝る。
ごめん、ということで、上賀茂神社までもどり、鴨川の対岸の喫茶店、バロンにいった。
何を話したのか、覚えていないが、就職のことか、いろいろ話した。
御園橋を渡りながら、川の流れを見ていた。
と、いうことを思い出した。事故の話にもどす。
矢井が、北さんは足をくじいて、後ろになっていたのだが、近くの旅館に止まっているという。
「誰か、北さんが和歌山まで帰る、いうてるから、送って行ってくれないか?」
ぼくは一つ返事で、
「ぼくがおくるよ、九度山まで」
「じゃああ、頼むよ」
なんとかあるけるが、体重をかけれないようで、肩を貸したりしてあるく。
舞鶴駅で、みんなと別れ。二人の旅が始まった。
よくよく思えば、ぼくは21才くらいまでは、女の子と話すのが苦手であった。
いつからか、よく話せるようになり、なるべき話そうと努力した。
和歌山までは遠い、日本海から太平洋までだ。
特急にのりこむまでも大変だった。肩を貸したり、手をひいたり、
特急に乗り込み、いろいろ話した。
「たいへん、やったな、最後の夏休みやのに・・」
「矢井君は全治三か月だから、もっとかわいそうだよ」
「そうか、夏休みはベッドに上か・・」
事故の顛末などを聴いた。海で泳ぐはずが、痛い目に・・。
大阪駅についた。大阪駅がたいへんだった。バリアフリーなんかない。
ひたすら階段。大阪地下鉄に乗り換える。これまた時間がかかる。
手を握るんも、慣れてきた。よく考えれば、女の子の手を握ったのはあのときが初めてだった。
地下鉄のなかは満杯で、他の人が見れば、カップルに見えただろう、倒れないように支えたり
難波に着いて、今度は南海高野線に乗り換え、もう夕暮れになり、夜になった。
再び乗り換えて、田舎の路線のようにかたことと、九度山駅を目指した。
「おとうさん、迎えにきてるのかな」
「大阪駅から電話したから、来てると思う」
「来なかったら家まで送るよ」
だんだんと二人は疲れ、会話が少なくなってきた。
「お父さん、おこってるやろうな」
「でも、まあ、くじいただけと、いってるし」
電車の中で、北さんのお父さんに、なんと言おうか、考えていた。
やっと、着いた。ひなびた駅で、駅の前に、ライトが一つ、
そこにおじさんがいた。すかさず、ぼくは、
「大切なお嬢さんを怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げた。おじさんは、なんともいわなかった。
「おい、かえるぞ」 北さんを連れて帰った。
ぼくは、ひとりで、向かい側の帰るホームへ線路を渡り、ふたたび大阪を目指した。
大阪から、京都へ、地下鉄には 終電。始発の山陰本線から思わぬ旅立った。
しかし、そこではまだ終わらない。清水のバイクをのって帰らないといけない。
1時過ぎ、もう疲れ果て、下宿でバタンキューだった。
翌朝。上の部屋の逢坂くんが僕を呼んだ
「女の子から電話ですよ、いいなあ!」
ぼくはあわてて、45度の傾斜の階段を上り、電話にでた。
「きのうは、ありがとう」 北さんからの電話だった。
「もう、足はいたまないか?」「お父さんにおこられたか?」
「おさたにくんが謝ってくれたから、あんまりおこられなかったよ」
「そうか、よかった」
すこし、沈黙があり
「逢えないかな?」と、聴いてきた。
ぼくは、ドキリとした。やばいと、思った。
ごくりとつばを飲み込み。
「ああ、あえない」 けなげに 少しトーンが高い声でいった・
「これから、ゼミ旅行で信州にゆくんだよ」
「そうか、いつ帰ってくるの?」
「ええと、7月末カナ」
「じゃあ、そのころ逢える?」
ぼくは、また焦った。
「いやあ、あえない、そこから、ひとりで北海道にいく」
「いつ帰ってくるの?」
「わからないんだ。予定がないんだ」
ぼくは、内心、昨日の旅で、北さんに心を半分奪われかけていた、
しかし、まだ、事故でけがしてる矢井君の手前、仁義をはずすことはできない。
またしても、忘れていた、この日はすかいらーくという会社の説明会だった。すっぽかした。
ゼミ旅行も楽しく終わり、
それから北海道一人旅も日程オーバーし、おかんに、
「4回の夏休みにいつまで旅にいってるねん、会社のひとから電話あったぞ、
はやくかえってこい!」怒られた。
しかし、夏の旅は楽しくて、矢井のことや北さんへの思いはすっかり忘れていた。
帰ってきて、数日たち、やはり、北さんから電話がかかってきた。
二人で会うのは危険と思い、関係ない人々を呼び飲み会と称して8月の終わり
河原町にいった、当時、はやりはじめた、からおけにいった。
北さんは天国のキッスを歌った。あまり、見ないようにしていた。
北海道一人旅はもてもてで、いたるところで女の子と知り合い。まあ、彼女とかそういう
不純なことは一切なかったんすが、もてた。しかし、生まれてこのかた彼女はできなかった。
ぼくら、就職活動も忙しくなり、くわえて、落第のぼくは授業てんこ盛りで週6で大学へ
なおかつ、後輩の大江たちとサークルをはじめたので、とんでもない忙しい学生になった。
そんな、夏休みが終わったある日。
友人のひがしが電話をかけてきた。
「おいまた、矢井君が 事故にあったそうだ!」
「どこでや!」
「琵琶湖の近くでバイトにいくときに、らしい」
「まじかよ‥。明日、見舞いにいってくるわ」
ぼくは、翌日は神戸で内定者の食事会に参加の予定があったのだが、午前二学校をさぼり
原付で、琵琶湖のほとりの大津市民病院にいった。
「また、同じパターンでぶつけられたんや」
ほんとについてない奴だった。
まだまだ、続きます