東俊一君の思い出  08

2017年5月某日。

京都のほうに行く用事ができた、この機会を利用して、あの東君の事故現場に行こうと思った。

もう何回も何回も、行ったが、いつしか、行けなくなっていた。

もう、すっかり街は変わっていた、北大路下鴨本どうりの交差点。

ここの現場には事故当時、30個はあったろうか、花束がすごかった、みんな、悲しみに暮れて花束を次から次へとおくんだ。

でも、近所のひとにはその後の処理が迷惑だったとおもう、

近所の寿司屋さんが、バケツをいくつもおいて、毎日、枯れるまで水を変えてくれてたらしい。

その寿司屋さんももうなかった。

 

右直事故だった。しかも事故の相手は京都産業大学の学生アルバイト、お歳暮のトラックだった、クリスマスイブの夕暮れ

一人はバイト先に給与をもらいにいこうとして。もうひとりは、バイトをして。同じ学生。彼もまた被害者でもある。

彼も、ずっと苦しんでいると思う。ほんの少しの時間があればすれ違った運命。それが交通事故。

洛北病院で、お母さんと立っていた学生がいた。たぶん、あいつだとおもう、彼は隅の方で頭をもたげ、たたづんていた。

このトラックの会社は、今井京阪神急行という会社で、東北でも大きな事故を起こし、倒産吸収されたとうわさに聞いた。

 

あの横断歩道あたりをすぎて、恐らく渋滞してる車の横をすり抜け、出てきたところに、あせって右に曲がろうとした

手を合わせ、お酒をまく、

ガードレールにあった、針金細工のAPPEのものは、どこを探してもなかった。

もちろん、花束もない。

東君のお父さんもなんどもいったらしい。そこで、花束をおく女の子二人をみつけ、三人でお茶を飲んで話をしたそうである。

時が流れ、誰もいない。そういうもんだろう。

彼が給与をとりにいこうとした、バイト先も2000年ごろまでに多店舗展開したが、その後、全部無くなってしまった。

もちろん、ぼくらの下宿もなくなった。

何でも何度も夢を見た。最近は見なくなったが、下宿にいる夢。もう最近は見ることも無くなったが

たられば、で話をすると、彼も生きていれば会社に入り、結婚をし、子供を持ち、そういう普通の人生を生きていただろう。

それが、出来なかった。20歳で終わった。

ぼくら下宿のメンバーも、彼の大学の友人も福井の友人も60半ばになり 40年の月日を過ごした。

彼のことを思い出すことがなによりの供養になり、存在になるのだ。

おわり、 2025/05/29