1983年1月20日 木曜日

10時半起床。やる気の出ない後期テスト中。高校のときは、レベルが低い高校だったですが、勉強熱心で、すこしやれば100点とかだった。

しかし、大学は外国語学部のスペイン語というのを選んだばっかりに、4年間。苦しむことに・・。

大学三年のこのときは、グレード制にひっかかり、1年と2年の授業の落とした単位を取得する年だった。三年であっても、スペイン語の3年の授業を受けることはできないのである。必然的に、4年のときに3年の授業と4年の授業を両方受けるという恐ろしいスケジュールがまっていた。

4年になると、法学部や経済経営の学部の連中はほとんど単位を取り終え、もう、週一しか学校に行かなくて済み、就職活動に余裕でできる。

3年は、ぼくは週3回しか、学校にいかなくてよくなったのだ。まあ、ぼくは、スペイン語の勉強が嫌でたまらなかった。

なんでそうなったのか、つくづく思いだすに、まずは、勉強せずにあそびほうけていたのもある。それに、東君の事故死で、後期テストに

全くやる気が無くなり。合わせて嫌いなスペイン語の先生に頭に来ていて、テストを受けなかったのだ、

おもいっきり、その先生から怒られたのを思い出す。もう、ブルーでPTSDで、何を言われても平気だったが・・。

昼前に、もとさんがくる、ほんと、もとさん、よく小山コーポに来ていた。東君が鍛治さんの彼女にはどうかということで、じんみさんが紹介したのがはじまりで、鍛治さんにぼくは、「なんで、もとさんと、つきあわないですか?」というと、ふーん、という顔をしていた。

同志社女子で、島原の仏壇やの娘であった。

もとさんと、北山どうりの喫茶ロクにいく、ココも24時間の店で漫画がたくさんあった。

そもそもこの日はスーツを着て、卒業写真の写真を写真屋さんに撮影に行く予定だった。

しかし、なぜか、もとさんは、ずっと話し続けていた。鍛治さんの話とか、彼氏はいないが、友達はいるとか、

そして、この日は、その翌週にある後期テストの欧州論1 のノートを北亜由美さんにコピーしてもらう約束を

三叉路で2時に待ちあわせをしていたのだ。

「まだ、いいじゃない」と、もとさんは話を続けた。

電話が鳴った。

「もう、何時間待たせるの!」北さんの怒りの電話だった。

かんかんに怒った亜由美さん。丁度、ひがしが、三叉路にいて、預けるからと、帰った。

しまった。二つの約束をすっぽかしてしまった。

夜になって、松清寮のひがしの下宿まで、バイクで、コピーを取りに行った。

ああ、今日は、いったいなんだったのか?と思いながら、中山酒店の自販機のバドワイザーを飲みながら

弱いのに、酔っぱらった。

「あ、加茂湯にいかな、」

酔ったまま、風呂に入り、のぼせる。

風呂から出てきて、気を失い、倒れた。美しさで有名な加茂湯の若奥さんのまえで・・。しっかりみられた・・。

旦那さんが、声をかけてくれて、すこし、寝たら、直って、下宿にとぼとぼ帰った。