阪神大震災の記憶  3

おとんとおかんを三田の親戚にあずけ、ほっとしたが、内心、おとんはいずれ抜け出すだろうと思った。

ふと、思い出した、六甲道の親戚のことだ。あの家はどうなった、家族はどうなった?

1月18日。そのまま、三田から六甲ごえで、御影に戻った。コンビナートの件はどうなったのか、わからない。

恐いので、御影高校の横で車を止めて、寝ることにした、

神戸新聞様 ページ https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/sinsai/01/rensai/199503/0005610206.shtml

しかし、その石油コンビナートではとんでもない格闘が行われ、たしか、ドキュメンタリーにもなった。

LPG(液化石油ガス)の気化は絶え間なく続き、ガスタンクがかげろうのように揺らいだ。記事から

事故のタンクからたまたま横にあったからのタンクへ移す、

事故タンクから隣のタンクヘのガス移送が始まった十八日午後六時半、神戸市東灘区の住民七万人の避難勧告は解除された。

未だ。その朝は避難勧告がでていた。そういえば、危険区域にはいらないように警備する人がいたような気がする。

朝になると、御影高校の体育館などは避難するひとで満杯。掲示板などには、安否情報。入り口には支援物資の六甲のおいしい水

の段ボールが山のように積まれていた・。

不思議な光景を見た。御影高校のグランドでは焚火をしている避難してるひとがいた。グランドの横の家は全壊しているが

玄関は無事で、そこにポストがあり、そこに新聞少年が神戸新聞を入れたのである。人が住めないのに、

すこしすると、避難所からおじさんが出てきて、ポストの新聞をとり、しげしげと読んでいる。

驚いた。神戸新聞。それを配る少年。どういうことなんか、

神戸新聞さんはあの有名な、三宮駅前の新聞会館にあり、全壊していた。にもかかわらず、発刊を続けていた。

後で聞くと、原稿をかき、京都新聞さんがそれを受け、印刷し、それを神戸に送り、というのを繰り返したそうだ。

テレビドラマにもなった。すごすぎないか、避難民のみなさんは、情報はあのとき、新聞しかなかった・。

しかし、ラジオもあった。ラジオ関西である。海の見える放送局。ここも相当被害が出ておりながら

放送を続けた。

そういう、戦い、苦闘が、しらないところで繰り広げられてたんだろう・・。

六甲道の親戚の家に行った。

ここの家は、長七の次男の家で、菊正宗の役員をされ、長七の本家の長男が戦争で亡くなり、いろいろと助けてもらってた恩がある。

ことあるごとに、おとんは、そのうちにあいさつに行き、僕を連れて行った。高校の学費もだしてくれたらしい。

老夫婦とおばさんが三人で暮らしていた。

阪神大空襲で、床の間に、焼夷弾の不発弾が突き刺さった家である。

しかし、今回は、全壊であった。

家のまえに、不動産の事務所があり、周辺のひとびとが、頭を下げて、そこにいれてもらい。集団で避難していた。

こういう個人的な避難場所には、援助物資が届きにくい、なんども尼崎でパンなどを大量に買い入れ、差し入れた・。

おばさんは、床に寝て居た。僕が突然来たので、驚いていた・。

「おじさん、おばさんは、避難されたんですか?」

「車で、長男がな、枚方まで連れて行った、もう10時間かかったそうや」

しかし、なぜ、おばさんも行かないかと、聞くと家が心配であるという。玄関は崩壊し、誰でも入れるからだ

「おとうさん、おかあさんの着替えをもたすのわすれたんや」

「そうですか、それなら貴重品と服を、枚方まで僕は運びましょう、」

そこから、おばさんと崩れた家におソロおそる入り、荷物を作った。車の後部がいっぱいになるほどつんだ。

そしたら、いこか、もう夕刻にちかづいてきた。

しかし、二号線にでたが、全くうごかない。43号線もだめだし、大阪にでるのに10時間かかった。

明け方、大阪に着いた。ロイヤルホストにはいった。

おばさんは、しげしげとみんなをみて、しげしげと街をみわたし。

「なんで、こんなにちがうの?」カルチャーショックのようだった。

ひさびさのまともなあったかいモーニングを食べて、顔色も変わった。

そこから、枚方樟葉までいき、荷物を下ろした。おじいさんとおばあさんは喜んでいた。

落ち着いて、少し話をして

「さあ、かえろ」とんぼ返りだった。

今度はなぜか、43にでて、もう、すごい渋滞だった。

もう連日の疲れで、なんでも眠ってしまい、おばさんに起こされた。

おどろくべきことに、阪神高速の解体が始まっていた。何十台の重機が一列に並んで、夜中もおかまいなしに

音を立てて、コンクリートをつぶしている・。おどろいた。

なんとか、帰り着いたのは、あさだった。ひらかたに往復するのに二日もかかった・・。

よくよく考えれば、仕事をまったくしていなかった。店のほうは、北井さんが復興をしてくれていた。大川原さんも家が親戚がたいへんなので

大目に見てくれた。店のほうは、簡単な工事をして1週間ほどで、時間限定で営業でいるようになっていた。

阪神間に店は順番に工事するようであった。

つづく 4へ 2025/01/10